蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

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寺務雑記

■2019年12月20日(金)

 明治初期の自由民権活動家・杉浦吉副の顕彰碑を建立しました

 昨年早くから計画をしておりました、明治初期の自由民権活動家・杉浦吉副の顕彰碑がこのほどやっと建立されました。

杉浦吉副顕彰碑
杉浦吉副顕彰碑、後方に見えるビルが栃木裁判所(現、宇都宮地方裁判所栃木支部)

 杉浦吉副は元福島県相馬藩士、明治初期の自由民権活動家。弘化3年(1846)生れ、父は吉寛、母はサクと言います。杉浦家は京都で能(観世流)の鼓の名手の家柄で、吉副も鼓の名手だったといわれています。元和8年(1622)、杉浦家の先祖が相馬藩の当主に請われ、当藩に仕えるため福島県に移住しました。父の吉寛は、代官や藩の勘定奉行をつとめ、廃藩後は区長をつとめました。

 吉副は長じて県役員や戸長をつとめた後、明治16年(1883)第六銀行につとめた後三春銀行に移りましたが、そこで福島県の自由民権運動の指導者だった河野広中を知り、運動に参加してその感化を受けました。福島では一年前の明治15年(1882)に福島事件があり、県令三島通庸の指令により2000人の民権活動家が逮捕され、容赦のない拷問など厳しい弾圧を受けました。三島通庸は「鬼県令」と呼ばれました。

 翌明治16年、三島通庸が栃木県令として栃木町(本市)に着任すると、吉副は広中の甥の広躰とともに栃木町に移り、当地の自由民権過激派の鯉沼九八郎宅に身を寄せました。翌明治17年(1884)、福島で弾圧された民権家の残りに呼応するように、吉副たちは通庸の暗殺と完成したばかりの栃木県庁舎の爆破を計画、鯉沼九八郎が爆弾の製造を担当しましたが、製造中に爆弾の破裂事故を起こして負傷を負い、事は発覚して計画は未遂に終りました(加波山事件)。吉副は逮捕され、当山に隣接の栃木裁判所で死刑の判決を受け、同所で死刑に処せられました。遺骸は、榊原経武(弁護士、初代栃木市長)ら「下毛有志」によって当山に葬られました。

 吉副の死後130年、自由民主主義の時代になってすでに70年余。吉副に心を寄せる市民の間から名誉回復の声が高まり、それに応えて顕彰碑を建立するに至った次第です。