蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

悪運断ち 三鬼尊 日本で唯一、三尊の守護神

悪運断ち 三鬼尊

三鬼尊(栃木市指定文化財)

当山の大師堂内に祀られている「三鬼尊」は、日本で唯一の三尊一体の鬼神で守護神。「悪運断ち」「病魔退散」「子育安全」のご利益があり、縁日(1月と8月の16日)には戦後三十年頃まで境内いっぱいに露店がならび、近郷近在からの参拝客でにぎわいました。

この「三鬼尊」に似た例が安芸の宮島の大聖院(真言宗御室派)の「三鬼大権現」ですが、こちらは大小の天狗を従えた守護神で、お姿は鬼神ではありません。

 鬼と言えば、人畜に危害を与える危険なイメージや、節分では福豆で追いやられる悪いイメージが多いのですが、この「三鬼尊」は修験道の山伏たちに信仰されていた善鬼で、日本修験の祖といわれる役行者(えんのぎょうじゃ)に使役されていた前鬼・後鬼に近い山岳宗教の守護神です。

以下は、この地に伝わる「三鬼尊」についての伝説です。

「酒屋荒し」の鬼

昔々ある冬の晩、お寺の近くの酒屋に大男が来て「酒をくれ」と大きな徳利を出しました。びっくりした酒屋の主人が、大徳利にあふれるほど酒を注いで渡すと、大男は小銭をおいて暗い夜道に消えていきました。

あくる朝主人がその小銭をたしかめると、土間に木の葉が数枚落ちているだけでした。次の晩もその次の晩も同じことが起きたので、奇妙に思った主人はこっそり大男の後をつけていったのですが、お寺の境内で見失ってしまいました。

このことをお寺の住職におそるおそる相談したところ、三鬼堂の赤鬼・青鬼・黒鬼のうちまん中の青鬼が酒の臭いのすることがわかりました。そこで酒屋の主人はある日近所の男たちの力を借り、お寺の三鬼堂に上りこみ青鬼を鉄のクサリで縛ってしまいました。それからというもの、その酒屋に大男があらわれなくなりました。


「鬼門除け」の話

この三鬼尊は、江戸時代に当地の都賀郡部屋村富吉の石塚家から当山に寄進されたと伝えられています。石塚家には立派な長屋門があり、その階上部分に祀られていたといいます。しかし、石塚家から当山に寄進された理由はさだかではありません。

部屋村では、古くから巴波川(うずまがわ)の舟運河岸が栄え、渡良瀬川・利根川・荒川を経由して江戸との交易がさかんに行われました。大きな荷物はこの部屋村で陸揚げし、中小の荷は小舟で巴波川を上り栃木の町(今の入舟町河岸)まで運ばれました。

栃木の町は部屋村の上流、北東の方角に当ります。北東は丑寅(うしとら)の方角、つまり鬼門です。部屋村では毎年のように巴波川の出水に見舞われ、家屋が水に浸かったり、実った稲が全滅する年もありました。巴波川の出水は部屋村の人々にとって最大の災いでした。この災いを除くため、三鬼尊が鬼門の方角にある栃木町の当山に寄進され、「鬼門除け」とされたとしても不思議ではありません。


「山の霊鬼」の話

当山の開祖朝海法印は山に入って厳しい修行を行う修験僧でした。開創以来、当山は修験道のご祈祷を行う真言寺院で、日光の山や峰での修行に向う行者さんの宿泊所になっていたにちがいありません。

部屋村の石塚家は大きな屋敷をもった名家だったそうで、舟運でこの地にやってくる人の宿にもなり宿泊者のなかには修験の行者もいて、長屋門に祀られている三鬼尊を旅や修行の守り神として敬拝していたことは想像に難くありません。

当山と石塚家の縁をつないだのは、方角や吉凶運などに詳しいこの修験の行者たちに相違なく、部屋村の人々の洪水の悩みを聞き、巴波川上流の栃木町(鬼門の方角)で彼らの宿になっている当山に三鬼尊を寄進することを人々に勧め、自分らが背負って舟で運んだものと思われます。

この場合の三鬼尊とは、山を神仏として敬う人たちが、住む里に山の恵みをもたらす「山の霊鬼(霊力)」のことで、前日光・古峰神社の天狗にも通じます。


「福は内、鬼も内」の話

「鬼」には、善い鬼と悪い鬼がいます。童話「桃太郎」に登場する鬼ヶ島の鬼は、人や家畜を食べたりする悪い鬼ですが、悪行を反省し心を改め善い鬼にもなります。

地獄の絵に登場する閻魔大王の助手としての鬼は、地獄に堕ちた罪人をきつくこらしめる獄卒(ごくそつ)です。地獄の釜のフタが開くという正月とお盆の十六日は閻魔大王の縁日で、当山では、大正時代から昭和三十年頃にかけて、それが三鬼尊の縁日として行われ、お参りの人が三鬼堂に向って列をつくり、境内には見世物小屋や大道芸人、露天商・チンドン屋などが並んで大変なにぎわいでした。

福は内、鬼は外の鬼。これは、暖かい春という福に対する寒くきびしい冬のこと。春の福豆に冬の鬼が追い払われます。当山の三鬼尊はこのタイプの鬼ではありませんので、節分の時は「福は内、鬼も内」といって豆をまきます。