蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

閑話休題

『空海の夢』

令和6年09月01日
 去る八月十二日の昼下がり、現代日本を代表する「知の巨人」、編集工学の松岡正剛さん(編集工学研究所長)が亡くなられた。この三十年、真言僧の私に宗祖弘法大師空海の「意味」を教え、刺激し続けてくれた異才で、松岡さんと松岡さんの『空海の夢』に出会わなかったら、私は、恥ずかしくも、空海知らずの真言僧で終っていた。
 松岡さんは、自らを「生涯一編集者」と言っていたが、松岡さんの博学多識は古今東西の文学・哲学・思想・美術・音楽・書道・風俗・芸能・生活文化・宗教・言語・歴史・地理・風土・量子力学・博物・鉱物・生物・生命科学・認知科学・デジタル・情報・政治・経済ほかに及び、すごいことはそれらが松岡さんの知能のなかで自在にかかわり合い、融通無礙に相互関係性を持ち、綜合化され、新しい「知」に再編されることで、それこそが松岡編集術すなわち「アルス・マグナ(大いなる術)」だった。いわば、人類の「知」の綜合編集が松岡さんの「アルス・マグナ」である。
 その松岡編集術から生れ出た一つに「空海」があった。私の学んだ近代仏教学の空海でもなく、真言宗の伝統教学の空海でもなく、松岡さんの博学多識が独自編集した「空海」であった。こんな空海は前代未聞で、『空海の夢』は空海を、東洋の気候・風土やそこに育まれた生命の息吹きから説きはじめ(2ー東洋は動いている)、生命と意識の対立の問題(3ー生命の海)、意識の進化と言語の進化(4ー意識の進化)、空海のルーツ・讃岐の佐伯家・陸奥国の蝦夷か中央朝廷の佐伯氏か・異言語の家庭環境(5ー言語の一族)、聖山・神仙・道教(タオイズム)・ヤマ・修験・雑密(6ー遊山慕仙)、インド密教の起り・密教経典(7ー密教の独立)、呪術と内観、陰陽とイズム・神仙タオイズム・密教タオイズム、観念技術(8ー陰と陽)、『三教指帰』・山林修行・剃髪得度(私度僧)・虚空蔵求聞持法(9ー仮名乞児の反逆)、空海のエディトリアル・漢籍の徹底暗誦・鄭玄の漢籍註釈・淡海三船や大伴家持のエディトリアル(10ー方法叙説)、密教の神秘を内に秘める(例えば、『大日経』・高野山)か外に出すか(『秘蔵宝鑰』・東寺)、瑜伽・密呪は内外のせめぎあい、両界曼荼羅は内外一対、不空の密教ナショナリズムと恵果の密教インターナショナリズム(11ー内は外)、入唐留学・般若三蔵のもとでのサンスクリットと華厳の修得・奇跡的な恵果との出会い・密教受法・異国人や異教寺院の見聞・五筆書法の修得・「虚しく往いて実ちて帰る」も国禁破りの早期帰国(12ー長安の人)、筑紫の観世音寺に留め置かれる・槙野山寺へ・京の高雄山寺へ(13ー初転法輪へ)、直観と方法の糾合・空海の構想・「神秘性」「象徴性」「総合性」「活動性」の綜合化・大いなる方法(14ーアルス・マグナ)、比叡山(天台)の最澄とのさまざまな緊張関係(15ー対応と決断)、空海の書・卒意・「書は散なり」・五筆和尚(16ーカリグラファー空海)、両界曼陀羅・イコン・宇宙のアナロジー・シンボリズム・分散と集合・諸仏のオーケストレーション・東寺の立体曼荼羅・国家鎮護(17ーイメージの図像学)、高野山開創・鉱物丹生・丹生明神・狩場明神。東寺の密教化・国家鎮護(18ー和光同塵)、即身成仏・インドラジャーラ(帝網)・一即多・円融無礙・華厳(19ー即身成仏義体験)、生れ生れ生れ生れて~・死に死に死に死に死んで~・生命の神秘・生物の進化・生命科学(20ー六塵はよく溺るる海)、いろは歌・漢字からカナへ・呉音と漢音(21ーいろは幻想)、声字実相・法身説法・空海の言語哲学・呼吸・生体エネルギー・言語と文字(22ー呼吸の生物学)、マントラ・真言・陀羅尼・スポータ・バルトリハリ・コトダマ・ボーカリゼーション・一字に千理を含む(23ーマントラ・アート)、王法仏法・内側の国家(24ー憂国公子と玄関法師)、ビルシャナの起源・ゾロアスター教・アフラ・アスラ・ヴァイローチャナ・ビルシャナ・大ビルシャナ(25ービルシャナの秘密)、十住心の第九に華厳を置く・重々帝網(即身)・事事無礙・中国華厳・法蔵・澄観(26ー華厳から密教に出る)、直観様式・場面集・『華厳経』の場面・密教の観念場面の導入・マンダラ原理・ホロン・ホロニクス・シンボル(イコン)参集・ホワイトヘッド・有機体哲学・actual entity(27ーマンダラ・ホロニクス)、ヤマに戻る・弥勒菩薩・兜率天・想像力と因果律の宥和(28ー想像力と因果律)、だと言った、否、編集した。
 こんな切り口で空海が論じられ、空海の専門家であるはずの真言宗僧侶も空海研究者も、あるいは仏教学者も空海に関心を持つ識者も、息を飲み黙るしかなかった。その頃、世間では、空海と言えば司馬遼太郎の『空海の風景』だったが、それも一瞬にして色あせた。
 この頃の松岡さんは、ホワイトヘッドの有機体哲学(ホロニズム)の視座にかなり傾倒し、井筒俊彦による空海の言語哲学(法身説法・阿字本不生・声字実相)評価にもおそらく同調していた。さらには、中国華厳の法蔵や澄観の四法界、なかんずく事事無礙、一切のものが相互に相依相入し合っているホロニックな円融の法界、一に多が包含され、多が一に集約される一即多・多即一を相当に読み込み、それらと符合・通底する西欧の文学・哲学・思想・生命科学・量子力学などの博学多識と空海思想とを、「アルス・マグナ」によって縦横無尽に「編み込んで」いたにちがいない。
 この松岡さんの「アルス・マグナ」によって、明治期に福沢諭吉や中江兆民などの開化派から「淫祠邪教の類い」「前近代」とまで言われ、戦後もノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士くらいしか日本を代表する「知」として評価しなかった空海が、一気に世界レベルの思想に位置づけられたのである。
 松岡さんは、空海の密教思想を「二つで一つ」、すなわち相反する二律の両立(デュアリズム)・連立方程式と言ったり、「私は、空海の言語哲学に惹かれる」と言い、『声字実相義』の「五大にみな響きあり」「六塵ことごとく文字なり」をよく口にした。さらに、空海の書法や「書は散なり」にも無類の関心を寄せ、そしてやたら詳しかった。晩年は自らもよく筆を取り、私も当山の新本堂の扁額「大毘盧遮那殿」を揮毫していただいた。
 松岡さんは晩年、デジタル社会のなかで存在感を失っていく本の復権に努力していた。二〇〇九~二〇一二に、丸善の丸の内本店四階に展開した「松丸本舗」はその代表例であるが、ガンと闘いながら数多くの本を次々と出版した。この本へのこだわりについて、ついぞ聞きそびれてしまったが、察するところ、本が紡ぐべき文字やコトバまでがデジタル化し、本でしか表現できない「知」の世界が色あせ、無味乾燥になることに危機感を覚えたのではないか。そこに松岡さんならではの「言霊」の言語哲学を私は感じる。
 折しも、NHKの大河ドラマ「光る君へ」は、紫式部(まひろ)を主役に、越前和紙に、墨をすって、毛筆で、和歌や物語を、かな文字を書く、紙メディアのシーンを多用している。この番組のプロデューサーは、ひょっとして松岡さんと同じく、デジタル化され「言霊」を失くしていく現代のコトバの危機をテレビ画面から訴えているのではないか。邪推だろうか。
 松岡さんは、ウィンドウズというOSが登場する前、すでに電子知能のパイオニアだった。その頃、情報と編集に関する出版も多かった。私は編集工学の「工学」とは、デジタル技術のことだと勘ちがいしていた。松岡さんはもちろん、ハード・ソフトともにコンピュータに詳しい。しかし、最後まで使っていたのは古いタイプのワードプロセッサーだったとか。松岡さんは晩年、紙メディアすなわち本だった。AIロボットのコトバの無味乾燥を警告しているようにさえみえた。コトバを紡ぎ「方法」を編む人だった。よくソシュールやバルトリハリを口にしていた。