蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

閑話休題

「二者択一」という西洋合理思考の限界

令和6年08月01日
 「分断」という言葉がこの頃メディアの流行語になっています。
 アメリカ大統領選におけるバイデン・ハリスとトランプの激しい舌戦。それに象徴される民主・共和二大政党の支持者の「二極対立」。この二極によって、国論が二つに分れ、そのどちらかが勝ちどちらかが負ける。この「二者択一」の「分断」によって、リンカーン大統領が暗殺され、ケネディ大統領やその弟のロバート・ケネディ候補が射殺され、レーガン大統領にトランプ候補が銃撃されました。「二者択一」の勝ち負けは相手を容認・容赦しないのです。
 日本は、政権交代可能な政治改革と称して衆議院の選挙制度を改める際、多様性を好む国民性に合っていた中選挙区制をやめ、アメリカの二大政党制をマネして小選挙区制を導入しましたが、政権担当能力のある健全な野党は育たず、二大政党制による政権交代は絵に画いた餅で、お互いを容認しない与野党の不毛な「分断」だけが残りました。
 目を国際社会に転じれば、アメリカとロシア、NATO諸国とロシア、アメリカと中国、アメリカとイラン、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ、北朝鮮と韓国、シリア・トルコ・ミャンマー・アフガニスタン・イエメン・南スーダンの国内、アフリカ難民とヨーロッパ諸国で、自由民主と強権独裁・政治体制・経済権益・民族間・抑圧者と被抑圧者、貧富の「二極対立」が、世界中で起っています。皆、勝つか負けるか・損か得か・善か悪か・宗教の自由か専制か・民主か強権独裁か・貧しいか富裕かの「二者択一」思考、相手を容認しない「分断」思考です。
 然るにです。平和ボケで哲学思考の稀薄な日本でも、この「二極対立」「二者択一」の「分断」思考が無批判的に横行し、そういう思考から発言するインフルエンサーがいかにも正義ぶっていて困ったものです。
 例えば、時々テレビに出演しては、私などは「よく言うよ」と首をかしげるようなことを発言する著名な若い女性人道活動家がいて、先き頃は「パリ・オリンピックに、ロシアは参加できないのに、イスラエルは参加している」と不満げでした。何を言いたいのか、おそらく、ウクライナに侵攻をしているロシアはパリ・オリンピックへの参加が認められないのに、ガザ地区に侵攻しているイスラエルは参加している、同じ侵略国なのに不公平ではないか、ガザ地区で四万人ものパレスチナ人を殺戮しているイスラエルが、スポーツ・平和の祭典であるオリンピックに参加する資格があるのか、と言いたいのでしょう。しかし、こういうもっともらしい情緒的な人道発言も、私に言わせれば、一方を善(味方)とし一方を悪(敵対者)とする「二者択一」の「分断」思考で、決して平等・博愛の人道ではありません。
 彼女の目にはロシアとイスラエルが同じ侵略国に見えているようですが、ロシアによるウクライナ侵攻は、ロシアが一方的にウクライナを併合する目的で侵略している帝国主義戦争であり、一方イスラエルのガザ地区攻撃は、パレスチナの過激派ハマスによるテロ攻撃への自衛のための反撃報復で、これは『旧訳聖書』の時代から続く長い怨念と報復の歴史です。今回、電撃攻撃に出たのはハマスです。ハマスがあんなことをすれば、イスラエルが怒って無慈悲な報復に出ることはわかっていたことでした。
 彼女は反イスラエルのようで、今度のガザ地区の悲劇の当初にあったハマスによるユダヤ人殺害・拉致について一言も言いません。「二者択一」の「分断」思考の典型です。本物のヒューマニズムに基づく人道支援は「差別」や「分断」を持ち込むべきではありません。片方を善とし片方を悪者とするのではなく、双方の紛争犠牲者に平等な博愛を届けるべきです。
 この若き女性インフルエンサーのみならず、この頃は偏向した若き女性インフルエンサーが目立ち、その発言は時として耳に心地よいかも知れませんが「二者択一」の「独善」で、私には若気の至りに聞こえますが、ご本人は「二者択一」のアナログな「分断」思考に気づいていないのでしょう。「二者択一」思考では、世界中の「分断」の連立方程式は解けません。
 この稿を書いているさなか、ハマスの最高指導者イスマイル・ハニヤ氏がテヘラン出張の宿泊先で殺害されたことが報道されています。イスラエルのネタニヤフ政権は、国際社会がどう反対しようと、日本で女性人道活動家などが何を言おうと、これで手をゆるめることはなくハマスを徹底攻撃するでしょう。悲しいかな、これが国際社会の「分断」の現実です。
 余談ながら、敢えてもう一言。
 パリ・オリンピックに出場した金メダル候補・女子柔道の阿部詩選手が、二回戦で思わぬ一本負け。試合場(=柔道場)での礼儀(スポーツマンシップ)はどこへやら、所かまわず、人目をはばからず、だだっ子のように大声で泣き散らしました。柔道は、勝っても負けても「礼にはじまり、礼におわる」のではなかったでしょうか。彼女はどこで誰に柔道を学んできたのでしょう。大谷翔平選手のスポーツマンらしい品格や言動と比べ、同じ日本を代表するアスリートにしては、あまりにお粗末でした。
 かつて、世界に敵なしだった柔道女子の田村亮子(現、谷亮子)が、アトランタ・オリンピックの決勝で無名の北朝鮮選手に敗れ茫然自失になったことありましたが、その場で泣くことはありませんでした。また、最初の東京・オリンピックの時、柔道無差別級のオランダ代表ヘーシンク選手が日本の神永選手を破った瞬間、うれしさのあまり試合場の畳に土足で駆け上ってきたオランダチームの役員をヘーシンク選手が止め、敗れて柔道着の乱れを正している神永選手に礼を尽くし、神永選手は最後まで堂々としていた、というエピソードがあります。
 厳しい言い方になりますが、阿部選手の試合終了後の取り乱しは、「礼にはじまり、礼におわる」どころではなく、柔道選手としての未熟さをさらけ出したみっともない醜態でした。日本を代表する柔道のアスリートとして、きびしく問われなければなりません。感情や闘争本能をコントロールして人格練磨するのが、嘉納治五郎が言った日本の柔道だったはずです。スケートボード女子ストリート種目で金メダルに輝いた、十四才の吉沢恋さんの落ち着いた大人っぽいインタビューコメントとは対象的でした。
 日本のスポーツは、海外のスポーツが個々人の才能を伸ばし、本人が自分の才能を最大化して楽しんだり、あるいは持てる才能を職業化したりするのとはちがい、根本理念は明日の日本を担う青少年の身心の健全育成、すなわち教育です。甲子園の高校野球で言えば、あれはあくまでも課外教育による高校生の身心の健全育成の場。日本のアスリートは多くが高校・大学の部活動を経験しています。ですから、勝ち負けより、日頃の練習の成果を充分に発揮して正々堂々プレーすることに意味があり、勝っておごらず負けてくじけず、敗者は勝者を讃え勝者は敗者を讃え、お互いに相手の力を認めリスペクトし合う、スポーツマンシップによる人格形成が第一義です。「オリンピック憲章」の「オリンピズム根本原則」には、「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、 バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、 生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする」とあります。オリンピックは、個人の優劣を競い合う世界選手権とはちがい、勝っておごらず負けてくじけず、敗者は勝者を讃え勝者は敗者を讃え、お互いに相手の力を認めてリスペクトし合う、スポーツマンシップと平和の祭典です。東京・オリンピックの金メダリストとして日本柔道チームの模範であるべき阿部詩選手が、オリンピック憲章などすっ飛ばして、自己感情をあらわにし、対戦相手に対する礼儀どころではありませんでした。「独善」と「分断」を見た思いです。
 今回のパリ・オリンピックは、バチカンから強い不快感が公式に表明された開会式での演出問題、水質に問題があったセーヌ川でのトライアスロン、選手村の食事と待遇、柔道での度重なる誤審、フランス選手への有利な判定、選手間での人種差別、総じて運営面での「独善」が目立つ反面海外からの参加者に配慮を欠いた不誠実な対応が目立ちました。自己主張の強いフランスらしいと言えばそれまでですが、開催国の「独善」と参加選手のメダル至上主義による「分断」が気になるオリンピックでした。