この国は先進国か
令和3年5月1日
平成二十三年(二〇一一)三月十一日の東日本大震災の時、多くの被災者の避難先が学校の体育館の冷たい床でした。さらにそこでの避難生活と言えば、食べるものもなければ、暖房もなければ、トイレもすぐに汚れ故障して悪臭を放ち、とても人間が生活をする場所ではありませんでした。とりわけ、フクシマの原発事故で突然故郷を追われた人たちが、埼玉のスポーツアリーナや廃校に連れていかれ、通路や教室の床に雑魚寝(ざこね)させられる光景をテレビで見た時は愕然としました。これが世界有数の豊かな国ニッポンか、わが目を疑いました。
親や子を失くし、兄弟姉妹を失くし、大切な人を失くし、家を失くし、財産を失くし、職場を失くし、仕事を失くし、思い出の品々までも失くし、故郷を追われ、途方に暮れる人たちに、学校の体育館の冷たい床で雑魚寝することと、冷たい食事と、冷たい水しか用意できない、豊かな国のはずのニッポン。どこが世界有数の先進国なのだと憤りもしました。
豊かな国のはずのニッポンの、実は豊かでない実体=危急の時国民を人間らしく保護できないこの国の実体、民主憲法が言う基本的人権が守られない非民主的なこの国の実体を、天災地変が次々と暴露しました。
平成二十七年九月、東北・関東(線状降水帯)豪雨で鬼怒川が氾濫して大洪水になった時、翌平成二十八年四月、熊本・大分で起きた熊本地震の時、翌平成二十九年七月、九州北部豪雨の時、そして令和元年十月、台風十九号の記録的な大雨による東日本各地での河川氾濫の最中、この栃木市でも洪水によって市街地が冠水し床上浸水が多発し、避難所に指定された学校の体育館や敬老施設すらも浸水して避難者が逃げまどうことになった時、つくづくこの国は国民危急の時に、いざという時に、国民の生命・財産を守れない国、国民を安全・安心に保護する備えができていない国、すなわち国民主権・国民福祉という国の根幹がおろそかにされてきた国、政治や行政が国民の方を向いてこなかった国、だということを、天災地変が警告しました。いつから、この国の国民が緊急に避難する方法は学校の体育館や公共施設での雑魚寝と決まったのでしょう。広いスペースがあれば、冷たいフロアでいいというのでしょうか。
そこに今また、新型コロナウィルスという未知の病原菌が、この国の危機管理のお粗末さに警鐘を鳴らしています。
災いは突然やってきます。急に降ってわいたコロナ感染問題。今度は同じ自然現象でも天災地変とちがって目に見えない幽霊のような病原菌との闘いです。しかも、時間の経過とともに状況が良くなるわけではなく、長くていつ終るかわかりません。発生から一年を過ぎましたが、まだ世界中で感染拡大が続き変異株が新しい脅威になってきています。
こんな未曽有の国家的な危急の時、この国の政府は何をしているのでしょうか。国民が実感し納得する政治や行政の力がさっぱり私たちに届きません。いくら未知の感染症とは言え、政府の後手後手ぶりとまん延防止要請・緊急事態宣言のくり返しに国民は飽きてシラケてきました。
この一年、(PCR)検査による積極的な感染者発見~隔離・入院治療もやらず、結局のところ、三密を避け、不要不急の外出を控え、他人との接触を極力避け、換気し、ウガイをし、手の消毒をし、熱をはかり、ディスタンスを保ち、アクリル板を置く、といったガマンと辛抱を国民に強いただけ。つまりは、日本人の、公衆道徳・公衆衛生をちゃんと守り、個人の都合より社会の秩序を優先する、善良な国民性に頼りっきりで、有効な医学的・保健的・社会的・行政的対策もなく、事が起きてから考える、合意形成や意思決定に時間がかかる民主的な方法論や、主権の制限に気を取られ、グズグズ・ノロノロ・モタモタぶり。一年の間何をしていたのか、変異型ウィルスがまん延するとたちまち医療体制が追いつかず、通常の診療にまで大きな制約・制限が出てくる始末。こともあろうにワクチン調達も大きくおくれ、これまで国が手厚いことをしてこなかった保健機関や医療機関に従事する方々の、献身的・人道的な自己犠牲に助けられている始末です。国家的な危急の時に、すばやく有効な手が打てない、頼りにならない、国民に安全・安心を届けられないこの国の危機管理の能力のなさに若者がまず敏感に反応してシラケ、この頃は中高年も国や都道府県の懸命な呼びかけや要請・宣言を無視するようになりました。この「ゆるみ」、明らかに政府不信です。
いずれにしましても、経済大国=先進国だと錯覚し、モノ・カネの豊かさを自惚れていましたが、天災地変やウィルス感染が発生した危急の時、国民に安全・安心な生活を保障する、そういうインフラ整備を怠り、医師・看護師・病院・保健所、大学の医学部等の拡充やバックアップに背を向けてきた国の誤りをコロナウィルスが今警告しているのです。
皮肉になりますが、今のワクチン接種率の低さがこの国の正直な実力だと、覚悟することです。国家的危急の時、国民の生命や財産を守れず、国民に安全や安心を用意できず、逆に国民の献身や犠牲や秩序正しさや忍耐強さに助けられているこの国は、はたして先進国なのでしょうか。