蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

閑話休題

感染症隔離施設と災害時避難施設を兼ねた市民避難施設構想

令和2年3月20日
 今日は春のお彼岸の中日。うるう年なので通常は21日ですが、今年は今日20日が中日です。
 外は強い風と冷たい空気ですが陽光はすでに春。温暖化のせいか、当山の桜ももう開花直前。つぼみをふくらませています。本当なら、卒業・退職と入学・入社の別れと出会いの弥生三月。新型コロナウィルス感染拡大で、各種式典が縮小・自粛のやむなきに至っています。ふりかえれば、三月というと「今まで経験したことがない」ことがよく起ります。
 この四半世紀、日本では「未曽有」の「今まで経験したことがない」ことが何度も起きています。
 そのはじまりは、平成七年(一九九五)一月十七日、朝五時四十六分、神戸市・淡路島を中心に兵庫県・大阪府・京都府に甚大な被害を与えた阪神・淡路大震災。とくに神戸市内の被害はひどく、私たちはこの「未曽有」の「今まで経験したことがない」できごとに心を震撼させました。時の政府は社会党党首の村山富市氏を首相とする連立政権で、政府や各自治体の危機対応が問われました。これも国家的な「未曽有」の「今まで経験したことがない」危機管理の問題でした。
 次いで、同じ年の三月二十日(お寺では春彼岸の真っ最中)、二十五年前の今日、東京都心で発生した地下鉄サリン事件。宗教団体オウム真理教による宗教テロでした。人々の苦悩に寄り添い心に安らぎを与えるためにある宗教が大量殺人に及ぶとは、誰もが夢想だにしないことで、私たち人間の良心にとって「未曽有」の「今まで経験したことがない」できごとでした。
 余談ながら、その後長い時間がかかりましたが、主犯共犯とされた教団幹部はみな逮捕され、あるいは死刑に処せられ、あるいは長期刑に服しています。しかし、彼らは刑事罰として法的には裁かれましたが、彼らの宗教は裁かれず存続しています。
 宗教には昔から異端と弾圧の歴史がありますが、法然上人の「専修念仏」も日蓮上人の「立正安国」もはじめは異端で弾圧を受けました。戦後抬頭した創価学会(法華経信仰)も一時期異端でしたが、今は政権与党の支持母体に変身しました。彼らの宗教はこれからも異端のまま、アンダーグラウンドであり続けるのか、監視の目は続くでしょう。
 私見によれば、彼らが真剣にヨーガの修行法を採り入れているとすれば、都会のビルの一室などでなくインドの本場(リシケーシュ、ヨーガの聖地)に行くべきだと思います。「諸法無我」はインドの熱砂の台地や霊鷲山の高みや広大なガンジスの河岸に立ってみなければわからないと言います。ヨーガもヒンドゥーの宗教風土、その本場でこそホンモノになるでしょう。
 次いで、平成二十三年(二〇一一)三月十一日、午後二時四十六分、東北地方の太平洋沿岸を大津波が襲った東日本大震災、そして何より「未曽有」「今まで経験したことがない」のは東京電力福島第一発電所の四つの原子炉すべてが壊滅打撃を受け、もう少しで首都の東京を含め東日本の大部分が放射性物質の汚染によって悲惨なことになるところでした。
 時の政府は、民主党党首の菅直人氏を首相とする政権。政府の危機管理能力がここでも問われました。日本という国では左派政権の時に大地震が起きる、とも揶揄されました。また東京電力幹部の責任も問われましたが、何代かの社長はじめ責任を問われた関係者は裁判の結果無罪になっています。津波に対する対策に問題があることは、福島第一原発を調べたIAEA(国際原子力機関)からも日本共産党からも指摘され改善要請が出ていたにもかかわらず、東電は対応しませんでした。裁判では、あれだけの大きな津波の襲来は予知不可能ということのようですが、専門家のなかには東電の不作為の罪、怠慢・傲慢を指摘する声もあります。
 そして今回の新型コロナウィルス問題。ワクチンがない、特効薬がない、この「未曽有」の世界の誰もが「今まで経験したことがない」感染症問題で、安倍政権および各都道府県知事の危機管理能力が問われています。
 このほかに、毎年のように集中豪雨による水害、豪雪による雪害が起り、時に中越地震・熊本地震・北海道胆振東部地震がありました。まさにこの四半世紀の日本は災害列島です。
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 時に、今日述べたいことは、自然災害や感染症拡大で国民(市民・町民・村民、住民)に重大な生命の危険が及び、避難を余儀なくされた時の避難先の問題です。
 昨年十月、私が住む栃木市は台風十九号の豪雨によって河川が氾濫し、市内の約半分が浸水する未曽有の水害に見舞われました。避難施設も次々と浸水し、避難の途中で車ごと水難にあった人も出ました。住いに被害を受けた人たちはまだアパートなどでの避難生活を強いられています。国や県による河川改修や堤防の補強などの自然対策も喫緊の課題ですが、私は上記の観点から市町村レベルによる避難施設の新たな整備も同時に大きな課題だと痛感しています。
 東日本大震災の一年後、主宰していた密教21フォーラムの会員誌に次のような寄稿をしたことがありました。
 -毎年どこかで河川の氾濫や土砂崩れが起こるたびに、避難住民がきまって学校の体育館や公民館などに長期雑居する光景を見るにつけ、豊かなはずのこの国にしては国民の生命と安全を守る方法があまりにもお粗末、もっと言えば非文化的・非人間的で、どうみても豊かな国の国民救護方法ではない、とため息が出る。
 いかに緊急の避難所であっても、学校の体育館などの、冬は冷たく夏は蒸し暑いあのフロアしかないのか、命の危険にさらされて避難してくる気の毒な被災者を収容するのに、もう少し人間的なぬくもりのある避難施設はないものか、救急病院ほどではないにしても、とつくづく思う。いつからこの国では、学校の体育館や公民館が緊急避難に最もふさわしい場所ということになったのか。まずは(安全かどうかは別として)広くて多くの人を一括収容できることくらいしか頭にないのだろう。まるで戦時中の防空壕の発想と同じではないか。時代はもう進んでいる。日本は豊かな国になったはずではないか。豊かな国にはそれらしい国民のための緊急避難施設があるべきではないか。
 一年前の三月十一日、東日本大震災の被災地では多くの人が着の身着のままで緊急避難したが、避難場所となった学校の体育館や公民館は、例によって冷たいフロアに布団・毛布、寒くて不健康で不便で不自由ななか、何百人もの人が窮屈なスペースで雑居し、プライバシーも何もあったものではなかった。電気は停電したままで、暖を取るストーブも灯油もなく、食べる物も飲み物もなく、すぐに体調を崩す人・病気にかかる人が出た。しかし誰が救急車を呼ぶのか、誰が医療機関につなぐのかわからない。電話も通じない上、避難所の司令塔がいないのだ。
 それでも避難できた人はいい。地震発生の翌日避難指示が出された福島県双葉町では、病院の院長その他が強制的に現場を離れさせられ、入院していた重症の患者が、医師も看護師も乗っていないバスで避難所をたらい回しにされたり、真っ暗な病院に一晩置き去りにされたりして、死者が出ている。
 この貧しい現実は、被災者は誰でもとりあえず広く冷たいフロアで雑魚寝させることしか考えていない、と言っているに等しく、憲法第二十五条の「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利がある。国は、すべての生活部面において、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」(生存権)に背いている。災害時は「すべての生活部面において」に含まれないのか。避難住民は「すべての国民」に入らないのか。避難生活は「健康で文化的な最低限度の生活」なのか。
 どうやらこの国は「豊かさ」の意味をはきちがえてきたようだ。ひとかどの国なら、自然災害のリスクを想定し、そのための安全オプションを常備しておくのが当然のはずだが、この国は経済効率優先主義に目がくらみ、費用対効果の理屈がまかり通り、いつ起こるともわからない自然災害と人命保全のために、効果が数値化できない資金投入など重要視してこなかったのだ。言い換えれば、人命保護や災害対策は通常経費ではなく予備費扱いなのであり、経済的に「負の領域」のリスクとオプションには後ろ向きなのである。畢竟、国民危急の時に国民の生命・財産を守り、かつ国民を人間らしく扱うという考えは全くない、これがこの国の国家としての意志のようである。-
 然るに今度は、新型コロナウィルス感染さわぎで世界中が大迷惑しています。これからどんな展開になるか予測がつきませんし、栃木市だけの問題ではありませんが、いつ何時住民全体にふりかかってくるかもしれない災害だという点で、危機管理→避難・隔離施設につながってくる新たな問題です。
 そこで一考を案じました。栃木市を例にとると、
1.旧栃木市地区に二~三ヶ所、西方・都賀・大平・岩舟・藤岡地区に各一ヶ所、水害等の災害及び新型感染症拡大の際の住民のための避難・隔離施設を整備する。
2.この施設は、主たる事業として平時から自然エネルギー発電事業を行い、施設の電力をまかなうほか、余りの電力を売電し管理運営資金に充てる。発電の能力を持っていることにより、大規模停電・節電にも対応できる。
3.この施設はまた、市の防災センターを兼ね、旧栃木市地区の一ヶ所を総合管理センターとし、他を支部センターとする。平時から防災担当のスタッフが常勤し、必要に応じて福祉担当・医療担当等のスタッフが詰める。
4.この施設は、災害時には避難者約一〇〇〇人が長期の生活に耐えられるよう、快適で人間らしい行き届いた生活ができるスペースを臨時に確保できるようにする。
5.感染症の拡大時には隔離者約二〇〇人の医療行為がすぐにできるスペース、医薬品・医療機器等の備蓄スペース、医師・看護師等の事務・休憩スペース、臨時的な隔離病室スペース、臨時的な一般病室スペースを確保する。
6.また、新型感染症の拡大対策として、防疫体制を確保した上で、地元医師会の協力を仰ぎ、ドライブスルー等による発熱外来の検査・診断を行い、重症者・中程度者は然るべき病院を紹介し、軽症者は隔離スペースに収容する。
7.その他、避難生活・隔離生活に必要なスペース(各種生活用品備蓄スペース、浴場、多めのトイレ、談話室・娯楽室、子供用の遊び・学びのスペース等々)、ボランティア等のスペースを確保する。
8.この施設は、水害を考慮し、市内の比較的高台の適地に整備し、アクセス道路を広くとる。施設周辺には広い駐車スペースとヘリポートなどを兼ねた予備の広場を確保する。
9.この施設に隣接して「道の駅」「コンビニ」レベルの食品販売スペース及びレストラン・食堂を整備する。このレストラン・食堂は避難者・隔離者の食事もまかなう。
10.この施設は、平時には、市民が会議・集会・研修・制作・展示・教室・講演会・発表会などで多目的に活用でき、賃料はできるだけ少額とする。また浴場・談話室・娯楽室を少額有料の敬老施設としても利用可能とする。
11.この施設の維持経費は、主として売電の収入でまかなう。不足ある時は市が負担する。
 私は栃木市の防災プランを心配する立場にないのですが、一見荒唐無稽のことのようなこういうことを想起せざるを得ない、今まで経験したことのない生命の危機が頻発する、今日この頃です。要は、ひどい目に遭った住民に人間らしい生活を保障する、住民福祉の課題に行政がどう真剣に取り組むか、その一点です。
 栃木市では、財政ひっ迫のなか、短期・中期の予算の見直しをしたところ一〇〇億からの絞り出しができたと最近報じられています。国と県の支援を得れば、私の上記の構想もかならずしも荒唐無稽とは言えないかもしれません。