蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

  • 満福寺 境内
  • 満福寺 護摩法要
  • 満福寺 本堂
  • ありがたや 如来大悲の恩徳を 祈る心に 福 満つる寺
  • 満福寺 大師堂
  • 満福寺 大師堂内陣

満福密寺満福寺(通称))について

満福密寺(満福寺)は栃木県栃木市にある真言宗のお寺です。
真言宗(=密教)の故に密の字を入れて満福密寺と称します。
弘長2年の開創、750年の歴史を刻み、ご本尊は大日如来です。
清貧孤高の画家 田中一村や、明治期の自由民権家 杉浦吉副の墓所があります。

当山の御朱印

満福寺 御朱印当山では御朱印をお授けしております。ご希望の方は、「満福寺の御朱印について」をご確認の上ご来山ください。

御朱印の受付時間、御朱印をいただく際の留意事項についてご案内しています。

この秋(九月十九日から十二月一日)、当山に眠る日本画の異才・田中一村の遺作展が、東京上野の東京都美術館で行われています。期間中、連日、一日中長蛇の列が続き、大変な盛況とのこと。何がそうさせているのかわかりませんが、一村の無名・清貧・孤高・異端という実像とは関係なく、主催者の商業主義によって演出されたかつての第一次一村ブーム、第二次一村ブームが想い起されます。一村展「興業」の大当りで、開催関係者はことのほかご満悦のことでしょう。観覧料だけでも莫大な収入を得たのですから。そう、田中一村は死後五十年近くなっても、まだまだお金になるのです。
しかし、大成功の田中一村展にケチをつけるようで申し訳ありませんが、一村のお墓をあずかり、お墓掃除をしながらあの世の一村と会話し、一村の生涯を調べ、栃木市・東京・千葉市・名瀬市(奄美大島)と一村の足跡をたずね、一村の画譜を見ては絵の意味を考え、ひいては一村関連情報を集めたウェブページを当山サイトにアップし、平素どこの誰よりも一村の身近にいる私には、この盛況、一村の実像・本懐に叶ったものかどうか疑わしく、一村の画業からすれば虚構のようなこの出来事に、かえって一村は「私の絵をわかる人がこんなにいるのか、有難いことだ」とは思わず、「わかる人にわかってもらえればいい絵を、勝手に並べて公開し、見せ物・売り物にしている」と腹を立てているかもしれません。無名・清貧・孤高・異端をつらぬいた一村のことですから。
何しろ、奄美で日頃世話になっていた床屋の主人に、御礼に絵をプレゼントしようとしたところ、「そんな高価なものはいただけない」と辞退されたことに腹を立て、即座にその場で絵を破り捨てたという一村です。あるいは、久しぶりに奄美を出て、先ず姉の遺骨を当山の田中家墓所に納め、その足で代表作など奄美で画きためた作品などをかかえて千葉に帰り、親戚や親しい人たちに奄美作品を披露をした際、親戚の一人の不用意なホメ言葉に腹を立て、さっさと絵を片づけてしまった一村です。その一村が、自分の死後に起きている許しがたい不本意・不条理に腹を立てないわけがありません。
ところで、粋狂ながら、田中一村の「クワズイモとソテツ」と東山魁夷の「白い馬」、一村の「アダンの浜辺」と魁夷の「濤声」(唐招提寺「御影堂」襖絵の一部)を見ると一目瞭然。画家としての力量のちがいがハッキリわかります。愚見を呈すれば、一村の二つとも(奄美での作品はほぼそうですが)、奄美の大自然の息づかいと一村の生命とが一体になり、それが日本画の技法と相俟ってみごとに表現されています。自然をモチーフにしながら一村が画いているのはベルグソンの「élan vital」(生の飛躍)で、一村は大自然の息づかいを大自然の「内」から描いています。対して、魁夷の絵には自然の移ろいとその墨絵的技巧による描写はありますが、一村のような生命力を感じません。自然を日本画の技法で美しく描写したに過ぎなく見えます。一村には「生の哲学」があり、水平線の向うにはニライカナイ(海上他界)さえ感じますが、魁夷には描写技巧しかなく、絵に魂が宿っていません。馬も森も波も海も、生きているのではなくただそこにある風景です。画業の深さの問題です。
蛇足ながら、魁夷の作品はそれでも、バブルの象徴のように、東宮御所・皇居宮殿・吹上御所・皇居新宮殿などに納められ、日本画壇の名声を一身に集めました。富にも恵まれたでしょう。そして唐招提寺「御影堂」の障壁画「黄山暁雲」です。
この「黄山暁雲」の内の「濤声」―。一村は生前、新聞に報じられたその画像を見て「波の動きが逆さまだ(彼はこんな絵を画いていていいのか)」と言ったと言います。真偽のほどはわかりませんが、一村ならではの話です。この一言、バブル期に、絵を画けば飛ぶように売れ、すぐ二千万~三千万の値がつき、名誉も富も絶頂期にあった東京芸大の同級生東山魁夷に対する画家としての勝利宣言で、中央画壇を遠く馴れ、さい果ての島で無名・清貧・孤高・異端をつらぬき、魂の絵を画いてきた一村の本懐でした。その本懐―。岡倉天心・横山大観・川端龍子らの日本画壇の伝統という構造(権威)を一村は「脱構築」したのです。一村の手許にはピカソの画集がいつもありました。一村は奄美で、画家としてはピカソ・ゴーギャンになり、画業としては日本画壇の伝統の「脱構築」、すなわち脱構造主義のジャック・デリダになり、精神的には「élan vital」、すなわちベルグソンになったのです。
かく言う私。田中一村のお墓をあずかる寺の住職で、美術の専門家ではありませんが、一村のご遺骨をお預りして以来この四十七年、全国各地で行われた一村展にはできるかぎり足を運び、奄美の「田中一村記念美術館」にもお邪魔し、島内の一村旧跡も訪ね歩き、大矢鞆音さんなどの一村関連の出版物に目を通し、一村の絵が世に知られるキッカケをつくった『アダンの画帖』の中野淳夫さんや、亡くなる前の一村を訪ねた田辺周一さんや、親族の新山宏さんをはじめ、一村ゆかりの多くの関係者とも親交を重ねてきました。
その私から最後に一言ですが、NHKEテレ「日曜美術館」「奄美への道標(みちしるべ)画家・田中一村」はひどかったです。メインゲストの画家山口晃さんは役不足、司会の坂本美雨さんと守本奈実さんも役不足。一村をポップに語って不愉快でした。途中、録画出演した松尾知子さん(千葉市美術館副館長)もどことなく軽く(ただし、肝要なコメントの部分は無知な番組スタッフが編集カットしたかもしれません)、番組全体が一村の無名・清貧・孤高・異端という非日常に配慮のないものでした。影響力のある「日曜美術館」が、うかつにも一村の実像からはずれ、企画という自己都合で一村の画業をゆがめて軽く世俗化(日常化)することに加担をしたとしたら、一村は容赦なく腹を立てるでしょう。今回の「日曜美術館」の内容と東京都美術館の盛況ぶりは、どう見ても一村の無名・清貧・孤高・異端という非日常の本質から大きくはずれています。一村はただ、絵描きの良心に従って納得のいく絵を画いたまでで、多くの人から喝采を浴び、自分の絵が大きなお金になるようなことを、妄想だにしませんでした。
大音響がとどろき、土砂降りの雨に稲妻がひらめく
夏の雷は、関東平野の北央に位置する栃木県の名物だ
鮮烈な光に似て、時に激しく時には頑固に「わが道を行く」人が現われる
正直で、武骨に本質にこだわる、そんな野州人の精神がこの地には宿っている
(平成十五年八月三十日、読売新聞夕刊)
一村はまさに、この栃木の風土が生んだ鬼才でした。


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